2011年5月26日 説教 - 日本基督教団 河内長野教会
堀地敦子牧師
(エゼキエル37章1~6節,コリント一15章35~44節)
「 『悪い付き合いは、良い習慣を台無しにする』のです。正気になって身を正しなさい。罪を犯してはならない。神について何も知らない人がいるからです」。ここから、パウロは死人の復活について再び話をはじめています。教会の中で起こった種々の問題、争いがありました(コリント一5章みだらな行い、10章:偶像崇拝、14章:無秩序な集会)。教会が、神について何も知ろうとしなくなった。そのことと具体的な問題は決して関係のないことではありません。教会が、最も大切な福音をないがしろにしたら、その他の事は全て崩壊していきます。「死者の復活などない」。教会は、そこから崩れてしまうのです。しかし、誰が信じなくても神がなさったことを変えることは出来ません。「実際、キリストは死者の中から復� �し、眠りについた人の初穂となられました。…キリストによってすべての人が生かされることになるのです」(20~22節)。
「しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞くものがいるかもしれません」(35節)。こういった質問は、必ず出てくるものです。どうやって死んだ人が復活するのか、納得出来るように説明を求めているのでしょうか。死人の復活などありえない、それが世の常識です。しかし神は御自分のなさることを全部説明はされないのです。ヨハネ11章に出てくるラザロの復活の話にしてもそうです。墓に葬られて4日経ってからキリストによって生き返えらせられています。しかし、ラザロがどうやって復活したのかそのハウツーは説明していないのです。説明すれば信じられるものでしょうか。そういうことではないと思います。
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復活とは、どのように起こるのか。それに対して、パウロは答えます。36:「愚かな人だ」と。ラザロがどのようにして復活したのか。キリストがどのようによみがえられたのか。どの福音書を見てもキリストの復活がどうやって起こったのか説明しない。無理に説明するべきではないこともあります。命をあたえることも、命を取り去ることも、死人の復活、それらはすべて神のなさることです。人間には、神と肩を並べることは出来ません。それをしようとするから人間は罪に堕落をしたのです。それとも、わたしたちはあえてそれをしようとするのでしょうか。「神を知らぬ者は心に言う『神などいない』と」(詩14編1)。神を知らない人たちならいざ知らず。神が、この世界をこのように造られた事でさえ奇跡です。神の� ��手で造られた植物、動物、人間、太陽や月、星のことを引き合いにしました。「あなたがたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。あなたがたが蒔くものは、あとで出来る体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です」(37)。種は、地面に落ちて芽を出すと、種は死んでしまう。でも、種が死んで形がなくなっても、やがて茎が大きくなって穂が出てきて沢山の実を結びます。しかし、麦であれ、他の穀物であれ、わたしたちの蒔くのはただの種粒です。ここに人間の限度があります。いくら、バイオテクノロジーが発達しても、わたしたち人間には、朽ちない種を作ることは出来ません。朽ちない命は神が与えるものです。
アイルランドからの動物がそこにありますか?
自然の命は、確かに朽ちるものです。しかし、その朽ちるものにも神は多様な形をあたえています。植物も多様です。そもそも、この世界の生き物に自然の体を与えたのは神です。星に多様なあり方をあたえたのも神です。神様がいたからこそ、今の形で存在しています。神は、植物にも動物にも鳥たち、天体にもそれぞれ多様な特徴をあたえています。
一つ一つの種に、からだをあたえたのも神です。どの肉(サルクス肉体)も同じではありません。神は、あるものには人間の肉体を、あるものには獣、その他のものには空の鳥、あるものは海の魚の体をあたえました。地球の生き物たちは、多様な進化を遂げています。単細胞生物から、恐竜、昆虫、鳥たち、それらの生き物がなぜそのような進化をしたのか。生存競争のため、環境の変化などによっていろいろ解ってきた事もあります。でも、まだ解らない事もあります。ただ、同じ進化は二度と繰り返すことはありません。
天の体があるように、地上の体もあります。人間、動物、鳥、魚たち、それらは皆多様な光を発します。それでも、天の体は、地上のからだの輝きとは違うのです。わたしたちには、今は地上の光しか見ることは許されていません。
41:太陽の輝き、他方月の光、そして星達の輝き。それらの光は等しい者ではない。星と星の間でも違いはあります。宇宙の天体も、太陽、月、多くの星これらも塵が集まって出来たものといわれています。神が塵から造られた自然の世界の一部です。どれ一つ同じものはありません。宇宙には、沢山の太陽系の様なものが沢山見つかります。けれど地球の様に多様な生物がいる星はまだ見つかっていないそうです。多くの偶然が、重なって地球という星が出来たのだといいます。生き物の多様性も地球が生まれた事も奇跡的なことです。そのような奇跡的に生まれた星にわたしたちがいるのだというのです。我々の命にも、その地球にも限りある。地球が生まれて約25億年位がたっている。地球の寿命の約半分に来ているといわれ� ��す。我々も含めて、神の造られた世界はやがて光を失う。「被造物は虚無に服しています」。しかし、神は全能の方です。
42:死者の復活の場合も同様です。わたしたちには、その全貌は解りません。「蒔かれた時には、朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれる時には卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれる時には弱いものでも、力強いものに復活するのです」。自然の肉体が墓で朽ちる、それは、最初の人間アダムが罪を犯した為です。「塵に過ぎないお前は塵に返る」。人間の罪によって、被造世界は、死の力で支配されているのです。「被造物は虚無に服しています」。(ローマ8章21)といわれる通りです。それは、人間の命が塵に返るだけではありません。被造世界全体が、滅びの力に支配されてやがて塵に返らなくてはならないのです。それで世界は苦しみ呻いているのです。しかし、罪の力の支配は、永遠ではありませ� �。やがて終わる運命です。それは、キリストが来たからです。キリストがわたしたちの罪を背負って死を滅ぼして復活させられたからです。キリストは、朽ちるべきわたしたちにが新しい命、つまり朽ちない命ををあたえるために来られたのです。
43:蒔かれる時には、恥じるべきものでも、復活の時には輝かしいものに、蒔かれる時には弱いものでも、力強いものに復活する。
44:自然の体が蒔かれて、霊の体が復活する。自然の体があるのだから霊の体もあるのです。自然の命が生まれることも奇跡です。それは、すべて神がなさった事です。人は、神が命を息を吹き入れられてはじめて生きる者となりました。人が罪を犯して死ぬべき者となったも神はわたしたちを愛しておられるのです。神は、御子キリストを通して新しい命をあたえられるのです。命をあたえるためにキリストが命を捨ててくださったのです。だからこう言えるのです。もし、肉の体があるのなら霊の体もあるのである。キリスト故にわたしたちは新しい命を約束されて生きているのです。確かに今は、朽ちるべき肉の体を身にまとって生きます。けれども、霊の体は来るべき日が来れば必ず現れる筈である。キリストは、十字架で死� ��滅ぼし、わたしたちに命をあたえるのです。神の霊に由来する霊の体ということである。霊的な新しい体は神の霊によって立ち上がるのである。朽ちるべき筈だったわたしたちに神は、輝かしいもの朽ちることのない霊の体を身にまとわせてくださるのです。キリストが、地上に来られる日新しい時代が来ればそうなるであろう。それは、キリストに於いて既に実現しているのです。
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