「ダーウイン以前の自然の研究者たちは、自然の秩序を神の意図がいたるところにあらわれた一種の道徳上の実験室のようなものと見なし、自然の秩序のなかに道徳的な教えを見出そうとした。これに対し、ダーウインは、自然に対するそのような見方は誤りであると確信していた。ダーウインにとり、自然は『血塗られた弱肉強食の世界』であり、偉大な道徳的世界を具現化しているようなものではなかった。自然とは、人間が持つ正義の基準からすると受け容れがたい残酷な方法で、不適格者を排除することによって存続していくものであると、ダーウインは考えていた」
(ジェイムズ・レイチェルズ)
私たちがハイキングや旅行をした時に、視界に入ってくる自然はのどかで平和な世界だが、それは植物の世界だけであって、動物の世界は平和とは縁遠く、食うか食われるかの残酷な世界である。人間によって殺害された人間と動物の数は膨大なものだが、肉食動物によって殺害され� ��動物の数は、それをはるかに上回るものである。なぜなら、人類の祖先がこの地球上に登場したのは約500万年前だが、原始的な魚類は約4億8千万年前に、恐竜や哺乳類は2億3千万年前に出現したからである。
その時から今日に至るまで、一時も絶えることなく、多くの動物にとってこの世界は受難の場であった。野生の動物たちにとって、この世界を受難の場から平和の場に変えるには、どうしたらよいだろうか? この問題を考えることが第3部の目的で、自然の残酷さの実態を第1章で、その原因を第2章で、肉食を廃絶する方法を第3章で提案する。
1. 食うか食われるか
野生の肉食動物が草食動物を捕らえて食べる場面を、映画やテレビで一般に公開する場合は、かなり遠い距離を置いた映像で、詳細はよく分からないような配慮やカットがされている。しかし、私が1997年に偶然見たテレビの映像は、事実を隠さずに伝えていた。
マンセルP5は何色です。
一つの場面は、夜、五、六頭のハイエナが一頭の鹿に似た動物を取り囲んで、その腹部を食いちぎっていた。動物は、もはや逃げたり抵抗する気力をなくして、そこに立ちすくんだまま、ハイエナの執拗な攻撃をなすがままに受けていた。たちまち、腹部の皮が引き裂かれて、血だらけになった肉が腹部一杯に露出した。動物の4本の脚はよろよろとしたが、崩れないで地面に立ち、傷だらけの体を支えていた。ハイエナはその露出した血だらけの肉に噛み付いて、肉片を噛み切って食べ始めた。それでもまだ、動物は倒れないで立っていた。この生きながら食べられている哀れな動物を助けようとするものは、誰も現れなかった。
もう一つの場面は、雄ライオ� �の攻撃によって、既に立っていられなくなって座り込んでいる鹿に似た動物の傍らに、ライオンも座って、血だらけになった腹部を悠然と食べていた。動物は、まだ頭をすっと上に立てたままの状態で、大きな美しい目を開けて前方を見ていた。何事も起きていないような平常の状態の上半身だけを見ていたら、この動物は草原で一休みしていると思うだろう。しかし、食いちぎられて血だらけになった腹部を見ると、この動物の静けさは、恐怖と諦めから生じたものであることが分かる。
この二つの場面を見ていた私は、自分の心と身体の全体で、このような事態が絶対に存在してはいけないことを直観した。たとえ人々がこの行為を自然の摂理として容認したとしても、私自身は断固として否認すべきだと思った。そして、生� �ながら食べられている動物を救うために、ハイエナやライオンを射殺したい衝動に駆られた。
しかし、数日後に次の事に気がついた。「自分はハイエナやライオンを射殺する資格はない。なぜなら、自分も彼等と同様、肉を食べる生き方をしているから。」この気づきは、自分の肉食の習慣を反省して止めるきっかけになった。
もしも、偶然にこの映像を見る機会が無かったら、今でも肉食を続けていたかもしれないことを考えると、肉食している他の人々を、簡単に批判することはできない。何故なら、彼らが肉を食べているのは、昔の私のように自分がしていることの意味に気付く機会を持たなかっただけかもしれないからである。今、私がベジタリアン運動をしているのは、人々が偶然によって気付くのを待っていては 遅すぎるので、外部から働きかけて気付いてもらうためである。
捕食 一番上の動画に捕食の場面がある。
「ディープ ブルー(深く青い海)」
普通、海は平和の象徴として見なされている。太陽の光を受けてキラキラと美しいブルーに輝く穏やかな水面を眺めていると、心が深い平安に包まれるような気分になる。だから、死後は骨を海に散布して欲しいと言う人が少なくない。
しかし、そのような人が「ディープ ブルー(Deep Blue)」という、海中の世界を撮影した映画を観たら、気持ちが変わって、海中へ骨を散布してもらう計画を取り止めるに違いない。何故なら、死後、海の中で動物どうしが至るところで殺し合う戦場を毎日見ながら暮らすことになるからである。
サギを抑止する方法
海の中ではあらゆる生物が食うか食われるかの状態に常に曝されて、一時として安心していられる時がない。特に夜は狩の時で、どこかに隠れて眠りに入っても、翌朝まで生きていられるという保証はどこにもない。
動物が陸上で繰り広げられる弱肉強食の世界から脱出して、海中に逃れても、そこで待っているのは、同じく凄惨な世界である。宇宙から地球を見ると、あれほど美しい青色に抱擁されて平和に見えるのに、近づいて見ると、陸上も海中も恐ろしい地獄絵図である。
もしも神が存在していたら、このような世界をそのまま放置しておくはずはない。誰か神となって、この世界を救う者は現れないだろうか。
2.食物連鎖
動物が自己の生命を維持するためには、外界から食物を摂らなければならないが、食べるものが主に動物か植物かによって、肉食動物と草食動物とに分類できる。肉食動物という言葉は、狭義には鳥獣を主食とする哺乳類を意味するが、ここでは広義に使い、虫類や魚類を食べる動物も含める。
動物と食物の関係は、個々のケースを単独で取り出しても、十分に理解することはできない。なぜなら、動物はすべて生態系の食物連鎖という環境の中で生活していて、その外に出て単独では生きられないからである。食物連鎖の出発点は、太陽光線と無機物から光合成によってみずからの体をつくる植物(生産者)である。植物を食べて生きるのが草食動物(一次消費者)で、この草 食動物を食べる肉食動物(二次消費者)と、さらに、その肉食動物を食べる大型肉食動物(三次消費者)がいる。このように食う、食われるの関係が食物連鎖である。
アメリカのイリノイ州にある温帯草原では、1910年代に次のような食物連鎖が観察された。草を食べるコオロギやバッタなどの虫をカエルが食べ、そのカエルをヘビが食べ、そのヘビを鷹が食べる。種子や根や葉を食べるリスをコヨーテが食べ、そのコヨーテをオオカミが食べる。同じように種子や根や葉を食べるネズミをアナグマが食べ、そのアナグマをオオカミが食べる。草を食べるバイソンをオオカミが食べる。
(c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.
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食べる
この地球上には、なぜ肉食動物が存在しているのだろうか?それは、基本的には生物の進化理論によって説明できる。海中で6億年前に多細胞動物が生まれ、5億4千万年前に多細胞生物が爆発的に増加し始めたカンブリア紀の頃から、既に、海中の動物の間で、食う、食われるの関係が生まれた。
私たちの動物はきっと天国である
そして、三億六千万年前に、海から川を経由して陸上に登場した両生類が進化を重ねて、肉食する小型の爬虫類や哺乳類が生まれ、草食動物を捕食して、子孫を増やしてゆく。小型の肉食動物がさらに進化して、刃物のような歯や爪を持つ大型の肉食動物が現れて、小型の肉食動物や大型の草食動物を襲う。普通の草食動物は鋭い歯や爪を持っていないので、この肉食動物の攻撃に対抗できない。
このような体の構造の違いは、それぞれの進化の過程で突然変異と自然淘汰の繰り返しにより、少しずつ形成され、体の構造に適した食習慣ができあがった。そして、肉食にせよ草食にせよ、それに適した体の構造を持った動物が、適者生存の法則で生き残 ってきた。動物は、人間のように善悪の判断ができず、ただ自然の本能に基づいて行動するので、動物に責任はない。動物相互の肉食の究極的原因は、弱肉強食、適者生存という生物の進化を生じさせた自然の法則自体である。
肉食獣
人間の殺害は、誰もが反対し、それを阻止するためには、いかなる努力も惜しまない。動物の殺害も、少数ながら動物保護団体やベジタリアンが否認している。ところが、動物の捕食に関しては、自然の摂理と見なして、動物保護団体やベジタリアンも容認している。この残酷な自然に対して抗議する人は、例外中の例外である。
しかし、人間の肉食と動物の捕食は、己の利得のために、他の生命を奪うという点で、本質的には全く同じ行為だ。人間は、元来は草食動物だったが、鋭利な石器や道具を作ることによって、肉食動物のように相手を殺す鋭い歯と爪と同じ武器を持つに至ったのである。人間の肉食を否認するならば、当然、動物の捕食も否認すべきだ。他の動物に捕らえられて、生きたまま食べられる哀れな動物たちを助けるために、どのような方法が考えられるだろうか? 捕食の根本原因である弱肉強食や適者生存という自然の法則を変えることは不可能なので、草食動物の救助策を考えて実行に移すことは、大変な挑戦である。
1.肉食動物を隔離する。
アフリカの自然動物公園のように広大な土地を柵で囲い、その中に肉食動物だけを集めて隔離すれば、草食動物が襲われる危険はなくなる。だが、この場合、肉食動物は相互に弱肉強食や共食いを始めるだろうから、最終的には食べる物が無くなって、絶滅する他ないだろう。
2.肉食動物が好む植物を開発する。
人間が肉食を止める方法は、ベジタリアンになることだが、野生の肉食動物が捕食をやめる方法はあるだろうか? もしも、肉食動物が肉よりも好んで食べたがり、タンパク質などの栄養価も高い植物を開発したら、肉食動物は動物の代わりに、その植物を食べるだろう。例えば、猫は元来、肉食動物でネズミなどを捕食するが、「猫にマタタビ」と言われるように、マタタビという植物を非常に好んで食べる。
代表的な肉食獣のライオンやトラも猫科に属しているので、猫と同様に何らかの植物を好む可能性は十分考えられる。そのような植物を開発すれば、ベジタリアンが買って、ペットの犬や猫に与えるから、ビジネスとしても採算が取れるだろう。この夢を実現して、残酷な自然を変えようという野心を持つ科学者や企業家の出現を、動物たちは救世主として待ち望んでいる。
3.肉食動物を存在させない。
ある特定地域で鹿を捕食する肉食動物を全滅させた実例がある。アメリカのアリゾナ州カイバブ高原には、20世紀初頭、ミュールジカが約4千頭いた。政府は1906年にここを保護指定区にし、この鹿をもっと増やすために、羊や牛は他の地に移し、オオカミ、ピューマ、コヨーテ、ボブキャットなどの捕食者を捕獲して、駆逐した。その結果、ミュールジカは予想通り殖えはじめ、1920年には6万頭、1924年には10万頭と増えた。しかし、増えすぎた鹿が草や木を食べ尽くし、食料が不足して、餓死が始まり、1929年には3万頭、1939年には1万頭にまで減ってしまった。
この話は、食物連鎖に対する人間の干渉がよくない結果を招く実例として、しばしば引用される。そして、「草食動物が過剰に増殖すると、植物を食いつぶして、草食動物自身が生きてゆけなくなる。しかし、捕食者である肉食動物は、これらの草食動物を適当に捕食して減らすことにより、その生態系を調整し安定化させるので、必要な存在である」と考える人もいる。
確かに、一定面積の土地の植物が養える草食動物の数には限度がある。一般に動物はネズミ算的に増えてゆくので、ある時点で動物が過剰になり、餓死するものが出てくるのは避けられないだろう。しかし、餓死によって動物が減れば、その土地が砂漠にならない限り、再び植物が増えるだろう。つまり長期にわたって見れば、動物と植物の増減が繰り返されて、両者のバランスはとれるのではないだろうか。
もしも、大量の餓死を避け、植物も一定に維持したい場合、草食動物の増加を抑制するために、どのような方法があるだろうか?オーストラリアは、カンガルーの繁殖による弊害に悩んでいる。カンガルーを減らすための射殺は、動物保護団体から強く反対されている。また、雄の去勢手術や、雌への不妊用ホルモン注射のためには、捕獲しなければならず、これは大変な作業だ。そこで、雌のカンガルーに与える「経口避妊薬」の開発を計画している。先ず、カンガルーを引きつける強力なえさを作って、そのえさに避妊薬を混ぜて、カンガルーが住む場所に置いて食べさせる。この方法が成功したら、他の国でも採用されて、動物と植物の平和的共存が実現するだろう。
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